2009.11.12 夢見ヶ丘

昨日、プロフィールを更新した。

先日来、カウンセリングの際に少しづつ過去の記憶を口にしている。
そこから、いま自分が抱えている問題を考えていく。

幼少期の思い出は悲惨だ。
と言っても、無いからわからない。
祖母や、再会した母からしか聞けない。
だかり主観ではない。

二十歳くらいまで、時折、小さなベッドの上で、母と思われる女性に首を絞められる夢を多くみた。
母に再会した時、それが現実にあったことだと知る。

母は、田舎の習慣に馴染めず、また祖母や分家筋である親戚の陰惨ないじめ、父の借金などに耐えられず、また自分の看護師になりたいという夢を捨てきれず家を出た。

俺は祖母と親戚にガードされ連れ出せず、幼い妹だけを抱いて自分の兄の家に行かざるを得ない状況だった。
そこで、連れていけないのならと、俺を殺して自分も死のうと思った事が何回かあったらしい。

祖母は、母はお前を捨てて逃げたといい。
父は何も語らず。
そんな環境で育ち、母の記憶を自らデリートしたのか、俺には暖かいはずの母の温もりの記憶など存在しない。

唯一、おそらく6歳の時に下関駅の洋食屋で母と食べたポテトグラタンだけは覚えている。
母と再会した時に話したら、それが俺が小学校一年生の授業参観日に父と2人で訪れて授業中に俺を連れ出した日の事だった。
その日、母は新幹線で上京する日だったらしい。最後の晩餐だった。

おかげで俺は、ポテトグラタンを見るだけで吐くという事を18歳まで続けたが、これがトラウマなんだろうな。。。

母の顔もわからず。
存在も認知できぬまま。
母親ってなに?のまま。
今でもわからない。

家族旅行とか、全然行った事が無いし、家族単位の楽しい思い出はまったく無い。
だから、18で家を出てからは幸せだった。
それまでも、家にいない日の楽しさは忘れていない。

父親との関係は微妙だった。
父は、俺の父親であることが苦手。
俺は、父の息子であることが苦手。
二十歳まで、完全に敬語でしか会話はできなかったし。

それでも、時々、競艇場に連れていかれたり、組の事務所で遊んだりは楽しかった。

自分の、性格の中でお金にだらしないとこや、見栄を張るとこ、すぐに敵味方を判別するとこ、どれだけ仕事上大事な相手でも嫌いな相手には頭を下げられないとこ、仲間意識が異常に強いとこなどなど、父親の影響は強い。

いま、娘が2歳。
自分がこの先どういう風に彼女に接していけるかはわからない。
自分なりにとか難しい。

夫婦の姿を知らないから、妻とどう接していけるかも、未知の世界だ。

大切にしたい。
でも自信はない。

戸惑いがストレスになり、頑張る方向を間違えた結果、今の、うつ病がある。

情けないな。
働いて働いて、お金で人を幸せにしようとしてばかりだ。
妻の両親と同居中、言い合いの絶えない環境にうんざりして、仕事に没頭した。
もっと家族なら話し合って仲良くすればいいのにと毎日毎日思った。
理想ばかりが先走った。

妻は、恋愛が苦手な人。
例えば、なんだろな、普段から互いに触れ合ったりとか、恋人なら普通にしてる感じの事が苦手な人。それは、幼い頃から冷めた夫婦関係の両親の影響らしい。妻の姉は恋愛タイプだから、また少し観方も違ったのだろう。
妻は両親から離れたことがないが、姉は早くから独立していたし。

俺は恋愛に夢をみるタイプ。勝手に。

理想ばかり。

みんな仲良く。
毎日笑って生きていきたい。
でもそれは、基盤が無ければ難しい。

基盤が欠けている俺には難しい。

娘の寝顔をみながら、ごめんねと泣く。

妻の辛そうな姿をみながら、ごめんなさいと心で謝る。

2人とも、本当ならもっと普通の家庭に生まれたり、普通の家庭を築けたりしたはずだ。
妻の両親にも、申し訳ない。

普通を知らない人間が普通を求めたら病んだ。

生まれてすみませんとは、こういう事だ。

愛情を知らない人間が、愛情を与えたり愛情を得られることは、、、無い。


夢見が悪かったな。

朝から曇りだ。

今日は、妻と娘がマンションに来る日。

なにして遊ぼうかな。

なにを話そうかな。

どうすればいいんだろう。

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